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手越さんとNEWSについてゆるい中堅ヲタが考察するぶろぐ ついったー→@rei_news_99

加藤シゲアキ『あやめ』考察:「虹を渡る」の真意とは

みなさんこんにちは、れいさんです

御無沙汰しております。気がついたらブログのビューが一万超えてました。ありがとうございます。びっくりだ。ほんとにびっくりだ。コンスタントに読者さんがいることに感謝を覚えるばかりです。

(中々忙しくてね…某アンケートについては遂に集計が出来そうです。一部の楽しみにしている方々本当にごめんなさい。一年待ちとかどういうことやねんってね、ほんとにね)

 

さて、今回のお題はこちら

 

加藤シゲアキ『あやめ』考察:「虹を渡る」の真意とは

 

 

ばばーん。

一回やってみたかった…ずっとやりたかったの…あやめの考察…

この一年、通学時間に暇があればあやめのことを考えに考えてた…

でも…わからなかった…私にはあやめはわからない…

 

だが、一年間考えに考え続けて私なりに分かったことが2点ある。

今回はそれについて話していきたい。

 

 0.大前提

 

大前提として、私はあやめをある種の応援歌だと認識している。応援歌と言ってしまうといささか暑苦しく感じてしまうが、誰かの背中を押す歌であるのは間違いないだろう。「世界はもっとよくなるぜ!」って歌だよね、ってことは多くの人が抱いている感想だとは思うんですけれども、今一度ここで再認識することで押さえておきたい。

 

 1.世界は知覚される範囲によって構成される

 

私なりに考察したこと一個目。まずは私の中で重要じゃない方から。

っていうか今更ですけれども殴り書きでごめんね!勢いで書いてます!構成してまてん!!!読みにくかったらごめんさい!!!!☆

 

改めまして、「世界は知覚される範囲によって構成される」、どういうことか。

ぶっちゃけ「そのまんまの意味だよ」と言いたいんですが、どうにかこうにか頑張ってかみ砕きます。

これを説明するのに何を用いたらいいのか、そもそもこの思想?考え方?を私ははじめどこで知ったのか、覚えてません、故に参考文献掘り出そうにも掘り出せねえ。

極端に言えば、「我思う故に我あり」が近いのかも知れない。我思う故に我あり、故に世界は我の中に構成される。自分で書いてても意味わかんねえな(真顔)

過去最高に意味の分からないブログ記事を書いている自覚が生まれております。

 

例えば、あなたは壁を見る。壁は白い。だが、何故その壁は白いと言えるのだろうか。本当に壁は白いのだろうか。壁が白く見えることが普通なのか。

私は(自分で言いますが変わっているので)よくこういったことを考えるのですが、普通とは一体なんなんでしょうか。

例えば世の中には様々な障害がありますよね。身体障害とか精神障害の障害のことです。でも、障害とはなんなんでしょうか。普通から外れているから障害なのでしょうか。ではそもそも普通とはなんなのでしょうか。世間、いや世界のいう「普通」というのは、ただのメジャー、多数派のことのように私は感じます。でもそれって、本当に普通なの?と問いたい。

 

あっ、思い出した。やっと思い出した。高校の頃、倫理でこんな話を聞いたことがあります。

例えばカラスは普通「黒い」です。しかし、特別変異で「白い」カラスが現れた。我々は普段多くの黒いカラスを見ているから白いカラスを例外と考える。しかし、それはあくまで「我々の知覚する世界」での話であって、もしかしたら私たちが知らないだけで、もっと調べれば白いカラスの方がメジャーであることだって有り得るかも知れない。

従って、我々の世界というのは我々の知覚する範囲によって構成されるのです。

 

あやめの「世界は心の奥底にある」というのは、これを非常にポジティブに捉えたものだと私は考えています。

「だから僕は生きていく」の「だから」は、前に繋がる文章が存在しないのですが、それは聴き手が自由に補っていいものだと私は考えています。

だから、私の場合は、例えば、

「世界は心の奥底にある」=世界は私の知覚する範囲である

『よって、私は私の世界を自分自身の力によって生み出せる』

「だから僕は生きていく」

って感じですかね。

 

一ついいですか。読者に伝わっている予感が全くしません(真顔)(語彙力)

 

2.No,No Border.

で、話は二点目に移る。私がしたかった話。

当方、演劇だのなんだのパフォーマンス全般を大学では学んでいる。そんな立派な口を叩けるほど真面目に勉強はしていませんが。

そこで、あやめの歌詞を見ていてはっと思いだしたことがある。

 

ニブロール「Romeo or Juliet」だ。

 

www.youtube.com

 

これがそれですがぶっちゃけ見ても意味わかりまてん。

 

公式からの引用、このダンスのコンセプトは以下。

 

あらゆるモノゴトとの間に引かれている境界線。
男と女。心と身体。山と街。国と国。例えば、ボクとキミ。
この線をもって、僕らはそれを乗り越えようと思ったり、失くそうとしたりする。
合い言葉は、「No Border」。
でも、線の“ある”と思っている場所が間違っているから、
きっとこの世界はちょっとおかしなことになっている。
“あるべき場所”にちゃんと引かれた線ならば、そもそも乗り越えようがないんだから。
よく、よおく、見てみてよ。ボクとキミの間には、越えられない明確な線がある。
線を正しく引く。合い言葉は「No, No Border」。

 

つまり、(私の解釈ですが)、「物事の境界線は往々にして間違った場所に引かれている」、だから乗り越えよう!なんて思っちゃう、なんてところですかね。

LGBT(というくくり方は私は好きではないのですが、伝わりやすいのでとりあえずここではLGBTと表記)に例えると分かり易いのかも知れないのですが、「LGBTへの偏見をなくそう!乗り越えよう!」、声高に叫んでいる人、いることかと思います。でもそもそも「乗り越えよう」と思っていることが偏見なのではないか。「境界線がある」と思っているから乗り越えようとしてしまうのではないか。それこそが偏見なのではないか。このRomeo or Julietのコンセプトからは、そんな皮肉めいたメッセージを感じとります。No,No Border.

 

あやめに目を向けてみましょう。

「藍と青と紫のボーダーライン見極めるなんてできないんだ」

虹の色の境目について言っているのは勿論ですが、加藤さんが伝えたかったのは、前記したRomeo or Julietのような「境界線はそもそもそこにはないんだ」ということなのではないでしょうか。(と私は思う)

Romeo or Julietはタイトルからしてorという境界線を作っているのですが、あやめの続きの歌詞にも「いずれあやめかかきつばた」というorがあります。ボーダーラインを意識しているのは明白かな、と私は思っています。「いずれもあやめず=(でない)」と境界(?)を否定しているところや、「青空ライン」と言っているところから見ても。(ライだかラインだかは謎ですが)

だから、加藤シゲアキは「境界線の意識を否定」しているのではないかな、と思う。

 

虹は境界線が曖昧なものの象徴でもあり、一方で境界線が明白であるものの象徴としても使われている、両義的な使われ方をあやめの中ではされているのではないかなと思います。

虹は多様性の象徴でもあります。多様性の象徴とする世界では一つ一つの色に意味を持たせています。それがアタリマエになっている世界に疑問を呈したのが、あやめではないでしょうか。

「雨の弓を渡れ越えろ」、「虹を歩いてく」、これらの歌詞からは、ボーダーラインの意識を越えてこそ多様性理解が生まれる、というメッセージがこめられているように思います。

 

以上を持ちまして、私のあやめ論、殴り書き、終わり。

まとめると、私の中であやめは「世界は私が作ることができるんだから頑張っていこうぜ!壁があるという意識を無くしてこそ世界に愛が生まれる」という歌です。

イチジャニーズが作る歌としてはあり得ないくらい壮大。本当に後世に語り継がれてほしい。もっと知られるべきだ。

 

以上、少しでも私の考えが伝わっていると幸いです。

読み苦しい文章、失礼いたしました。